こんにちは、Mi-kunです。
昨日母親より、祖母が食事が全くできない状況になってしまい余命1ヶ月ぐらいかもしれない、という連絡がありました。祖母は今年94歳で大往生と行っていい年齢。老人ホームに入っていて、私は3ヶ月に1回ぐらい顔を見に行っています。
祖母は私が生まれた時に夫である祖父を亡くし、それから実家で私の両親と一緒に暮らしてきました。世にいうおじいちゃん、おばあちゃんのように何かを買ってくれる・・というよりは、いつも心配してくれている存在でした。
両親が出かけている時には食事を作ってくれたり、風邪を引いていたり家の中を走り回ったり、時間に遅れそうになったりしていた時など、いつも心配していました。大きくなってくると、そんな声かけが少し煩わしくなったりもして。
だんだん年を取るにつれ、痴呆が進んできたおばあちゃんと母は喧嘩をし、そこでおばあちゃんより立つ父と母の間でまた喧嘩が起き晩年は食事も別にしたりと幸せな余生を送らせてあげられたのかよくわかりません。私はその様子をみて、どちらに肩入れをするわけでもなく、どうしようもないこととして見守るしかできませんでした。
その後、社会人になり家を出て、しばらく実家に戻ることも少なくなっていましたが、私に家族ができ子供が生まれて顔を見せられるようになりました。痴呆は進んでいて、私といとこをいつも混同します。でも子供がくるとしっかりしなきゃと思うのか、いつも気を張って元気な姿を見せて私の両親を驚かせていました。
情けないことに、朝から考えていても心からおばあちゃんを笑わせてあげられたり、ありがとう、っていってもらえるようなことをしてあげた記憶がありません。父と母には孫とのコミュニケーションを通して少し親孝行はできているかなとは思うのですが、おばあちゃんはもうその時ほとんど動けなくなっていました。
私の人付き合いの仕方は、ここに現れているような気がしていて、誰かに喜んでもらいたいとか、素敵な思い出を残してあげたい、ということは行うものの、身近な人にもらっている愛情を当たり前と思いすぎてしまう傾向にあるような気がします。
おばあちゃんの好きだったものを思い出しますが、動けない、食べれないと行った状況の中でどうすれば喜んでもらえるか、ありがとうを伝えられるかがわかりません。
人は死が迫った時に何を思うんでしょうか。あまりにも私は未熟でその境地に達することができていません。とにかくできるだけお見舞いに行っておばあちゃんの顔を焼き付けておきたいと今は思っています。